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 椋鳩十は1905年1月22日、喬木村阿島北に生まれました。本名は久保田彦穂といいます。お父さんはその当時めずらしかった乳牛を飼っていました。お母さんは助産婦さんでした。

6歳で阿島尋常高等小学校に入学しました。小学校6年生の担任は市瀬厚先生でした。先生から文学の話を聞き、彦穂少年は飯田中学への進学を決意します。

 

13歳で飯田中学校に入学しました。夏休みや冬休みには父親とともに大鹿村や赤石山脈で過ごし、 自然の大きさや偉大さ、そして豊かさを知りました。この頃読んだ運命の書「ハイジ」は彦穂少年に文学への眼を開かせてくれたものです。 学校では佐々木八郎・正木ひろしという先生から文学の教えを受けました。

 19歳で東京の大学に入学。大学時代も休みには父親と遠山や大鹿の山を歩き、猟師や木 地師の話や生活に興味を持ちました。また、個人詩集を出版し、詩人としての歩みを始めまし た。24歳でみと子さんと学生結婚をしています。

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25歳で大学を卒業すると、南洋にあこがれ、南洋行きを目指しましたが、反対にあって、女医をしていたお姉さんのいる九州の種子島で小学校の代用教員となりました。しかし、暑い夏、ふんどし一つで授業をしてクビになり、たまたま欠員のあった鹿児島加治木町の女学校で教師となりました。

 28歳の時はじめて「椋鳩十」のペンネームで小説を自費出版し絶賛を受け、新聞などに連載小説を書くようになりました。33歳のときには「山の太郎熊」を発表、最初の動物文学です。

 42歳で鹿児島県立図書館長となりました。「母と子の20分間読書運動」を提唱し、全国に読書運動が広がりました。さらには鹿児島女子短期大学の教授を勤めています。その間、たくさんの動物文学、児童文学を発表し、数々の賞を受賞しています。

 1987年に喬木村名誉村民第1号になりました。
 同じ年の12月27日、82歳で逝去されました。

 

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椋鳩十年譜

 

西暦元号年齢ことがら
1905 (明38)   1月22日、喬木村阿島に父(金太郎)、母(たき)の次男として誕生。 本名 久保田彦穂。姉(清志)、妹(千代香)の三人兄弟。祖父(金四郎)は俳号(鳥梅)と号した俳人。父は牧場経営兼牛乳販売業。俳画号(龍眠)と号し、俳句・絵をよくし、芝居小屋をもつ文化人であった。 祖母(かの)は小笠原家の御殿女中の出、見識をもつ母(たき)は産婆をしていた。
1911 (明44) 6歳 喬木村阿島尋常高等小学校に入学。
1918 (大7) 13歳 長野県立飯田中学入学。(前年は不合格)
青年教師正木ひろし(のちに弁護士)、佐々木八郎(のちに早大教授)に 影響されること大であった。正木先生を囲む《またたく星の群れ》のグループとなる。(2年のとき権威を嵩にする体操教師に抵抗し、正木先生の弁護により停退学は免れ、原級とどめの処分をうける。)
1920 (大9) 15歳 2月15日、ヨハンナ・スピリ作、野上弥生子訳の『ハイヂ』の日本最初の翻訳が家庭読物出版刊行会から出版される。
1922 (大11) 17歳 正木ひろしが東京帝大在学(大12年卒業)のまま、飯田中学に赴任。
(正木ひろしは大正13年の9月に飯田中学を辞職し東京へ帰る)
1923 (大12) 18歳 3月、長野県立飯田中学を4年で卒業(5年制)、上京し早稲田予備校へ通う。帰郷していた時の9月に関東大震災があり、京都の予備校に転ずる。
1924 (大13) 19歳 法政大学入学。森田草平、豊島与志雄、野上豊一郎らの知遇を得る。
1926 (大15) 21歳 佐藤惣之助主宰『誌之家』の同人となる。処女詩集『駿馬』を自費出版。久保田彦保名。3月4日祖母かの没(81歳)。
1927 (昭2) 22歳 4月29日父金太郎没(58歳)。11月、第二詩集『夕の花園』を出版。
1928 (昭3) 23歳 4月15日、友人の妹赤堀みと子と学生結婚。八歳年下の妹(千代香)は、椋より先に鹿児島に渡り、県病院の女医だった姉(清志)のもとから鹿児島の女学校へ通う。
1929 (昭4) 24歳 同人誌『リアン』創刊。
1930 (昭5) 25歳 3月、法政大学文学部国文科を卒業。卒業論文「南総里見八犬伝の研究」
ジャック.ロンドンの『白い牙』に魅せられて南洋行きを決めるが、鹿児島で女医をしていた姉(清志)のすすめで中種子高等小学校代用教員となる。
長男(喬彦)誕生。8月、加治木高等女学校教師となる。
1933 (昭8) 28歳 1月、二男(瑤二)誕生。4月、『山窩調』を百部自費出版。「椋鳩十」のペンネームを初めて用いる。山窩小説で日本文芸会に清冽な流れを投入する。
「東京日々新聞」「中央公論」などに短編小説を書く。
山口斉校長からは、あき時間に宿直室で執筆を許可される。
10月、小説集『鷲の唄』を春秋社より出版するが、発刊1週間で発売禁止処分をうける。
1934 (昭9) 29歳 朝日新聞に山窩小説『山の天幕』を連載発表する。9月姉(清志)没。
1935 (昭10) 30歳 2月、故郷喬木に住む母が病にたおれ、家族は何回か来村する。10月、三男(幸男)誕生。
1938 (昭13) 33歳 はじめて少年向け動物物語『山の太郎熊』を「少年倶楽部」に発表する。
星野屋の主人片町繁視に伴われ、狩人たちの語りや遠山郷を含む伊那谷の動物物語を書く。(少年倶楽部編集長の須藤憲三の執筆依頼に応える。)
1940 (昭15) 35歳 8月、阿島の家屋敷手放す。
1941 (昭16) 36歳 母(たき)没。少年倶楽部にもっとも精力的に書いた頃。『片脚の母雀』『黒ものがたり』 『大造爺さんと雁』などを加治木の茅葺きの家で書く。   12月に太平洋戦争が勃発し、国家非常時の時である。
1942 (昭17) 37歳 4月、1年西組の担任となる。(学徒動員を共にし、4年間教えた生徒)
少年倶楽部に『月の輪熊』ほか5編を発表する。
1945 (昭20) 40歳 1月、長崎県の川棚にある海軍工廠へ魚雷づくりのため生徒と共に動員。生徒は卒業後も専攻科の名目で、敗戦の日まで動員生活をおくる。
1946 (昭21) 41歳 弾圧によって苦汁をなめた山窩小説に再挑戦する。昭和28年ころまで「小説文庫」「平凡」などの大衆小説に山窩小説を発表。
一方児童文学では「銀河」「少年朝日」「少年」などに発表する。
1947 (昭22) 42歳 加治木高等女学校の教頭(校長事務取扱兼教頭)になっていたが、11月13日付けで、鹿児島県立図書館長に抜擢される。(17年間努めた加治木高等女学校での教員生活が終わる)
1948 (昭23) 43歳 長女(あかね)誕生。図書館長となり地方に「普通文庫」を送り込む。
1950 (昭25) 45歳 『片耳の大鹿』出版。戦後真っ先の児童文学代表作。
1952 (昭27) 47歳 『片耳の大鹿』文部大臣奨励賞受賞。『大造じいさんとガン』が検定教科書に採用。児童文学作家としての地位不動となる。「農業文庫」設置。
1959 (昭34) 54歳 母と子の二十分間読書を流水小にて試みる。
1960 (昭35) 55歳 5月5日に母と子の二十分間読書運動を呼びかける。全国運動に広まる。
1961 (昭36) 56歳 あすなろ書房より『母と子の二十分読書』刊行。妹(千代香)ベネズエラで死去(48歳)。「大空で生きる」により小川未明賞受賞。
1964 (昭39) 59歳 『孤島の野犬』産経児童出版文化賞と国際アンデルセン賞国内賞受賞。
ふるさと喬木村にて初講演「読書と躾についてー母と子の二十分間読書ー」
1966 (昭41) 61歳 3月、鹿児島県立図書館長退任。 西日本新聞に『自然の中で』と題しふるさと喬木を連続50回連載する。
1967 (昭42) 62歳 鹿児島女子短期大学教授就任。附属図書館長兼任。
1970 (昭45) 65歳 『マヤの一生』出版。中国語にも訳される。飯田下伊那の学校で講演会多数。
1971 (昭46) 66歳 『マヤの一生』『モモちゃんとあかね』第1回赤い鳥文学賞・児童福祉文化奨励賞受賞。
1972 (昭47) 67歳 『におい山脈』出版。読書運動により文部大臣賞受賞。母校喬木第一小学校開校百周年記念の講演会をPTAと児童生徒の2回講演。
母校に「本立道生」の書を寄贈。
1978 (昭53) 73歳 鹿児島女子短期大学教授を退任。
1979 (昭54) 74歳 ふるさと、喬木村阿島の思い出の地に別荘を新築。度々夫婦同伴にて夏季涼を求めて生活する。
1981 (昭56) 76歳 『椋鳩十全集 26巻完結』(ポプラ社)。「鹿児島県民教育文化研究所」設立。初代所長に就任。研究所には長野出身(飯田高校にも在籍)で奄美で教員をしていた赤羽王郎の資料も多数展示されている。
1982 (昭57) 77歳 芸術選奨文部大臣賞受賞。『椋鳩十の本』などにおいて文学界への貢献による。翌年、ふるさと喬木村において受賞祝賀会を行う。
1987 (昭62) 82歳 2月、信州新町中央小学校校歌制定発表会。 8月25日、NHK教育TV「シリーズ授業」母校喬木第一小学校5年生に『生きものはすばらしい』の授業を行う。9月30日全国放映。 11月4日、急性腎炎にて入院。 11月21日、喬木村名誉村民第一号に推挙される。 11月28日、 母校児童会 病気快癒を願って千羽鶴をおくる。 12月27日、鹿児島市にて永眠。
1989 (平成元)   1月28日、一周忌記念行事「夕やけ忌」開催。
読書感想文コンクールの表彰式・記念講演会とも以後毎年実施。(平成10年から「夕やけ祭」として継続実施。)
喬木村生家跡の墓地に椋鳩十胸像建立。日本芸術院会員中村晋也氏。
1990 (平2)   「椋文学ふれ愛散策路」建設。
1991 (平3)   喬木村立椋鳩十記念館・記念図書館建設。
1992 (平4)   『マヤの一生』が映画化され、全国各地で上映される。
1996 (平8)   11月4日、椋鳩十夫人(みと子)逝去。
1997 (平9)   椋鳩十生誕100年祭
2004 (平16)   喬木村立椋鳩十記念館・記念図書館20周年
2012 (平24)   椋鳩十没後30年 30回記念椋鳩十賞読書感想文コンクール
2017 (平29)   30回記念椋鳩十夕やけ祭